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〈その6〉高校生活 落ちこぼれて

 そうして、大阪府立北野高校に入りました。中学校の先生には「合格できるやろうけど、入った段階でビリやで」と言われていました。その時にはピンと来なかったのですが、いざ入学してみるとその意味が分かりました。どの授業も、先生が何を言っているのか理解できないのです。
僕は「超」がつくプラス思考なので、あまり挫折を挫折と感じたことはありません。が、高校生活はとんでもなくつらい毎日でした。
高校生にもなって先生に怒られ、廊下に立たされ、周りからはアホ呼ばわりされる。スポーツにも自信があったのですが、学校が文武両道を掲げていることもあり、勉強だけでなく運動でもかなわない生徒ばかりの集団でした。思い出すのもつらく、おぼろげな記憶しかありません。
高校3年の同級生に、橋下徹・現大阪市長がいました。地元が近かったこともあり、一緒に遊んだり、机を並べて追試を受けたりしました。今も会えばあの頃のままで、展覧会にも来てくれます。
彼が大阪に戻り政治家になって以降、本人も含め、何人もの級友とのつきあいが復活しました。いろんな職業で活躍している仲間が多く、刺激を受けています。僕がイラストレーターをしていることを知ると、展覧会を宣伝してくれたり、仕事を持ってきてくれたりする友人もいます。時々、酒を酌み交わしながら、一度は消し去った高校時代の記憶を取り戻しています。




〈その7〉夜中の芸大 制作タイム

 進学先は京都市立芸術大学に決めていました。入試は、学科試験のほかに、鉛筆デッサンと色彩構成、粘土や発泡スチロールで制作する立体の3種類。高校3年から美大受験の予備校に通いましたが、現役では不合格でした。1浪後、美術学部のプロダクトデザイン専攻に入りました。
「平面の絵を描くより、物をつくる方が好きだから」と選びましたが、主に自動車や電化製品など工業製品の設計をする専攻でした。入学後に目指していた方向とは違ったことに気づくのですが、時すでに遅し。興味のないことを学ぶ授業は苦痛でした。
それでも、大学生活は充実したものでした。専攻に分かれると様々な制作の課題が出ます。大学は24時間開いていて、いつでも作業ができました。皆、昼間はバイトをし、夜になると三々五々集まってきます。僕も居酒屋のバイトを終えると大学に戻り、合間に酒を飲みながら、数日かけて制作しました。
自宅から1時間の距離でしたが、こっそり大学のロッカールームで寝泊まりすることもありました。調子に乗って畳や冷蔵庫、こたつを持ち込んだところ、教授にばれて片付けを命じられました。仕方なく撤退して教室に移りましたが、寒すぎて眠れない。その晩は、またロッカールームに戻りました。
美術学部は1学年百数十人あまり、全体でも数百人の小さな大学だったので、ほぼ全員が顔見知りでした。




〈その8〉芸大祭 実行委員長に

 学生生活で特に力を入れ、印象に残っていることの一つが学園祭です。「芸大祭」は、テントを張って机を並べてというのではなく、本物の店のような模擬店を出すのが伝統でした。例えばうどん屋なら、のれんのかかった引き戸を開けて中に入ると、畳敷きの小上がりに囲炉裏があったりするのです。
それだけの店をしつらえるには資材が必要ですが、貧乏学生には調達できません。そこで、先に学園祭を開く隣の私立大に出かけ、解体を手伝う代わりに廃材をもらうのが習いでした。釘を抜いて構内に積み上げ、出店団体の代表が囲んで奪い合うのです。どの団体も立派な店を出したいので、文字どおり血みどろの闘いでした。そうして入手した材料で約1カ月、建築や塗装に明け暮れました。
仮装行列も恒例でした。個人の変装にとどまらず、巨大なおじさんの顔、ゴキブリなどの大きな山車が出ます。四条河原町から京都市の中心部を練り歩き、所々で山車から仕掛けが飛び出しました。
先輩から指名を受けて、2回生の時に実行委員長をしました。この年は、4日間耐久の三輪車レースを企画。出場団体は三輪車の制作から始め、競技中も作業ピットで溶接し直すなど修理しながら走り続けるという、ばかばかしくも真剣なものでした。それまでなかった体育祭も開きました。今から思えば、よくあんなに情熱を傾けられたものだと感心するほどです。




〈その9〉マネキンの老舗に就職

 就職活動の時期になり、家電メーカーなどを受けに行きました。周りは次々と内定をもらいましたが、自分が本当にしたいのは工業デザインではないという思いもあり、行き詰まりました。そんな中、教授に紹介してもらったのがマネキンの老舗でした。
マネキンの販売やレンタル以外に、店舗の内装やウインドーディスプレーも手がけているといいます。具体的に何をするかまでは考えていませんでしたが、僕は、数年企業に勤めたらデザイナーとして独立しようと考えていました。ともかく経験を積もうと、採用試験はすでに終わっていましたが、無理を言って入れてもらいました。
入社後、店舗のレイアウトをする部署に配属になりました。棚やショーケースのデザインをしたり、人の動線を考えて配置を考えたりする仕事です。
発注元の企業に出向いて打ち合わせをするのですが、先方が上で、僕たちの会社が下という力関係があるようでした。会社に戻ったとたんに「もう一度来い」と言われたり、朝と晩でまったく違うことを言われたり、様々な無理難題を突きつけられました。サラリーマンというのはこういうものかと思いながら、理不尽な要求に耐えました。
当初は製図台で図面を引いていましたが、ある日、コンピューターの製図システムが導入されました。誰か使いこなせるようにならねばと、若い僕が担当になりました。




〈その10〉辞表 見通しないままに

 僕はフリーハンドで直線を引いたり、円を描いたりするのは好きですが、定規を使うのは嫌いです。ましてコンピューターでの製図など、苦役でしかありませんでした。次第に、次の人生を考えるようになりました。
入社翌年、大阪から京都に転勤になりました。転勤自体は嫌ではありませんでしたが、自分の代わりの人材はいくらでもいると思い知らされ空しさを覚えました。「自分にしかできない仕事をしたい」と、辞表を出しました。
見通しはまったくありませんでしたが、それまでにも趣味程度に描いていたイラストで身を立てようと決めました。勤めていた頃から、友人には「ポストカード屋をやりたい」と話していました。イラストの専門的な訓練を受けたわけでもなく、仕事の取り方も分かりません。あったのは「何とかなるに違いない」という根拠のない自信だけでした。
苦しい日々が始まりました。ファクスは最低限必要だろうと電話を引き、ただ鳴るのを待っている、そんな毎日でした。デザインに関係のありそうなところに片っ端から電話をかけましたが相手にされず、まったく仕事がないまま1年以上が過ぎました。「これが現実か」と打ちのめされました。
税務署に確定申告に行くと、あまりにも赤字額が大きすぎて、担当者に「お金、貸しましょうか」と同情されたほどでした。